「心」とは何か(アインシュタイン的に考える) [理数系思いつき]
博士と助手の会話。
助手:博士,「心」っていったい何ですかね?
博士:いきなりどうしたんだ? 失恋でもしたのか?
助手:いえ,そういうわけではないんですが,前々から気になっていて。。。
博士:我々は哲学者でもなければ宗教家でもない。しかし,科学者の端くれとして,こうした問題に取り組んでみてもいいかも知れんのう。~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~
助手:はい,博士。それでは早速,「心」っていったい何でしょうか?
博士:慌てるでない。何かを考えるときには,まず対立概念を考えてみるのがよい。
助手:「心」の反対語は,ここでは「物」とか「物質」でしょうか?
博士:そうじゃな。「心」は「精神」と言い換えてもいいかも知れん。いずれにしても,「精神」を「物質」と対比させながら議論を始めようではないか。
助手:はい,博士。まず,わたしの理解ですが,人間の体は「物質」ですが,死んだ人間の体には「精神」が宿っていないのに,生きている人間の体には「精神」が宿っている,という点を明らかにしたいと思っています。
博士:うん,問題設定はそれが最もわかりやすいようじゃ。では聞くが,生きている人間がいままさに死のうとしているときには,その体には「精神」が宿っているのだろうか?
助手:昔から,三途の川を渡るとか,幽体離脱とか言われていますが,人間の体から「精神」が抜け出しつつあるようなイメージでしょうか?
博士:そのイメージによれば,死んだ直後の人間の体の近くには「精神」がプカプカ浮いているということじゃな?
助手:少なくとも,自分の親しい人の死に遭遇したときには,多くの人がそんなイメージを持つような気がします。
博士:確かにそうかも知れない。しかし,我々は常識や言い伝えにこだわらず,科学的に考えなければならない。「精神」は,人間の体という「物質」から分離しても存在しうるのだろうか?
助手:仏教によれば,人間の体から分離した「精神」は,成仏すればお釈迦様の国に行き,お彼岸やお盆のときに一時的に人間界に戻ってくるとされています。成仏していない「精神」は引き続き人間界の近くをプカプカしていて,ときおりヒトダマになって目撃されたり,何かに乗り移って人間にアクセスします。
博士:何かに乗り移って人間にアクセスするとはうまいことを言うのう。ただ,きみの言う仏教的な理解を吟味する限り,「『精神』は人間の体から分離しては存在しえない」と考える方が科学的と言えよう。
助手:そうですね,成仏していない「精神」というのはあくまで例外的なもので,死んだ人の「精神」は原則として消滅すると考えるべきかも知れません。
博士:いや,わしは,死んだ人の「精神」が消滅するとまでは言っていないぞ。
助手:何ですって? 博士の主張は「『精神』は人間の体から分離しては存在しえない」ということですから,死んだ人の体に引き続き「精神」が宿っているとおっしゃるのですか?
博士:そうではない。わしはもう少し違うことを考えている。
助手:???
~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~
博士:わしが考えているのは,人間が死ぬということは,生きている人間と異なる時間に移動してしまうことではないかということじゃ。
助手:ははあ,わかりました。博士がおっしゃるのは,一種のパラレルワールドのようなものですね。確かに,天国や地獄を人間界のパラレルワールドのようにとらえるのは,多くの宗教で納得感があるのではないでしょうか。
博士:いや,そういうものではない。きみは科学者なんだから,相対性理論はもちろん理解しているんだろう?
助手:アインシュタインの相対性理論ですよね。それがどうしたんですか?
博士:特殊相対性理論から導かれる帰結について,いくつかあげてみてくれるかのう?
助手:いくつかあると思いますが,重要なものは,以下の二つでしょうか。
①静止している系よりも移動している系の方が時間の進み方がゆっくりになる。
②静止していようが移動していようが,すべての系において光の速さは不変である。
博士:そうじゃな。いずれも初めて聞くと頭が混乱してしまうような話だが,科学者はみな時間をかけて相対性理論を腹に落としていくものじゃ。では,光の速さで移動する系の時間の進み方はどうなるのじゃ?
助手:特殊相対性理論によれば,光の速さで移動する系では時間が止まることになります。しかし,質量を持つ物質は光の速さで移動できないことも同時に示されています。
博士:そうじゃそうじゃ。アインシュタインのメッセージはこうじゃ。
「人が永遠の時間を手に入れるためには,光の速さで移動し続けなければならないが,そのためには質量を脱ぎ捨てなければならない。」
助手:博士,ものすごい意訳になっていて,アインシュタインのメッセージとはズレているような。。。
博士:そうじゃろうか? 人間が時間の流れを意識するのは自分が質量を持っているからだ,と考えるのは間違ってなかろう?
助手:それは間違ってはいませんが。。。
博士:つまり,生まれるということは,「精神」が質量に縛りつけられることであり,死ぬということは,質量の呪縛から解き放たれることではないだろうか?
助手:博士のおっしゃる意味が何となくわかりました。「精神」が何かに宿ることによって質量を手に入れることで,生きるという状態になると。
博士:少し違う。さっき言ったとおり,「『精神』は人間の体から分離しては存在しえない」のだから,プカプカ浮いている「精神」が何かに宿るわけではない。
助手:またわからなくなってきました。
博士:人間は死んだ瞬間,その人間の精神の時間は止まり,幽体離脱などせずにその時刻に固定されて存在し続けるということを考えているのじゃ。
助手:なるほど,遺族の人々の時間は進んでしまうために,死んだ人とのコミュニケーションがとれなくなる。。。
博士:そうじゃそうじゃ,きみもようやくわしの仮説がわかってくれたようじゃな。
助手:博士の説によれは,人間が死んだ瞬間,遺体から精神(=魂)が抜け出し,光の速さで動き出すということですね。精神はそんなに急いでどこに向かうのでしょうか?
博士:どこでもよいではないか。そもそも,遺体から遊離した精神にとっては時間が進むことはないのだから,自分がどこに向かっているか認識できないのではないだろうか。仏教的には,何らかの周回軌道を進んでいて,年に二~三回,元の位置に戻ってくると考えるのがよいかも知れない。
助手:それがお彼岸とかお盆だというわけですね。
<おしまい>
助手:博士,「心」っていったい何ですかね?
博士:いきなりどうしたんだ? 失恋でもしたのか?
助手:いえ,そういうわけではないんですが,前々から気になっていて。。。
博士:我々は哲学者でもなければ宗教家でもない。しかし,科学者の端くれとして,こうした問題に取り組んでみてもいいかも知れんのう。~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~
助手:はい,博士。それでは早速,「心」っていったい何でしょうか?
博士:慌てるでない。何かを考えるときには,まず対立概念を考えてみるのがよい。
助手:「心」の反対語は,ここでは「物」とか「物質」でしょうか?
博士:そうじゃな。「心」は「精神」と言い換えてもいいかも知れん。いずれにしても,「精神」を「物質」と対比させながら議論を始めようではないか。
助手:はい,博士。まず,わたしの理解ですが,人間の体は「物質」ですが,死んだ人間の体には「精神」が宿っていないのに,生きている人間の体には「精神」が宿っている,という点を明らかにしたいと思っています。
博士:うん,問題設定はそれが最もわかりやすいようじゃ。では聞くが,生きている人間がいままさに死のうとしているときには,その体には「精神」が宿っているのだろうか?
助手:昔から,三途の川を渡るとか,幽体離脱とか言われていますが,人間の体から「精神」が抜け出しつつあるようなイメージでしょうか?
博士:そのイメージによれば,死んだ直後の人間の体の近くには「精神」がプカプカ浮いているということじゃな?
助手:少なくとも,自分の親しい人の死に遭遇したときには,多くの人がそんなイメージを持つような気がします。
博士:確かにそうかも知れない。しかし,我々は常識や言い伝えにこだわらず,科学的に考えなければならない。「精神」は,人間の体という「物質」から分離しても存在しうるのだろうか?
助手:仏教によれば,人間の体から分離した「精神」は,成仏すればお釈迦様の国に行き,お彼岸やお盆のときに一時的に人間界に戻ってくるとされています。成仏していない「精神」は引き続き人間界の近くをプカプカしていて,ときおりヒトダマになって目撃されたり,何かに乗り移って人間にアクセスします。
博士:何かに乗り移って人間にアクセスするとはうまいことを言うのう。ただ,きみの言う仏教的な理解を吟味する限り,「『精神』は人間の体から分離しては存在しえない」と考える方が科学的と言えよう。
助手:そうですね,成仏していない「精神」というのはあくまで例外的なもので,死んだ人の「精神」は原則として消滅すると考えるべきかも知れません。
博士:いや,わしは,死んだ人の「精神」が消滅するとまでは言っていないぞ。
助手:何ですって? 博士の主張は「『精神』は人間の体から分離しては存在しえない」ということですから,死んだ人の体に引き続き「精神」が宿っているとおっしゃるのですか?
博士:そうではない。わしはもう少し違うことを考えている。
助手:???
~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~☆~
博士:わしが考えているのは,人間が死ぬということは,生きている人間と異なる時間に移動してしまうことではないかということじゃ。
助手:ははあ,わかりました。博士がおっしゃるのは,一種のパラレルワールドのようなものですね。確かに,天国や地獄を人間界のパラレルワールドのようにとらえるのは,多くの宗教で納得感があるのではないでしょうか。
博士:いや,そういうものではない。きみは科学者なんだから,相対性理論はもちろん理解しているんだろう?
助手:アインシュタインの相対性理論ですよね。それがどうしたんですか?
博士:特殊相対性理論から導かれる帰結について,いくつかあげてみてくれるかのう?
助手:いくつかあると思いますが,重要なものは,以下の二つでしょうか。
①静止している系よりも移動している系の方が時間の進み方がゆっくりになる。
②静止していようが移動していようが,すべての系において光の速さは不変である。
博士:そうじゃな。いずれも初めて聞くと頭が混乱してしまうような話だが,科学者はみな時間をかけて相対性理論を腹に落としていくものじゃ。では,光の速さで移動する系の時間の進み方はどうなるのじゃ?
助手:特殊相対性理論によれば,光の速さで移動する系では時間が止まることになります。しかし,質量を持つ物質は光の速さで移動できないことも同時に示されています。
博士:そうじゃそうじゃ。アインシュタインのメッセージはこうじゃ。
「人が永遠の時間を手に入れるためには,光の速さで移動し続けなければならないが,そのためには質量を脱ぎ捨てなければならない。」
助手:博士,ものすごい意訳になっていて,アインシュタインのメッセージとはズレているような。。。
博士:そうじゃろうか? 人間が時間の流れを意識するのは自分が質量を持っているからだ,と考えるのは間違ってなかろう?
助手:それは間違ってはいませんが。。。
博士:つまり,生まれるということは,「精神」が質量に縛りつけられることであり,死ぬということは,質量の呪縛から解き放たれることではないだろうか?
助手:博士のおっしゃる意味が何となくわかりました。「精神」が何かに宿ることによって質量を手に入れることで,生きるという状態になると。
博士:少し違う。さっき言ったとおり,「『精神』は人間の体から分離しては存在しえない」のだから,プカプカ浮いている「精神」が何かに宿るわけではない。
助手:またわからなくなってきました。
博士:人間は死んだ瞬間,その人間の精神の時間は止まり,幽体離脱などせずにその時刻に固定されて存在し続けるということを考えているのじゃ。
助手:なるほど,遺族の人々の時間は進んでしまうために,死んだ人とのコミュニケーションがとれなくなる。。。
博士:そうじゃそうじゃ,きみもようやくわしの仮説がわかってくれたようじゃな。
助手:博士の説によれは,人間が死んだ瞬間,遺体から精神(=魂)が抜け出し,光の速さで動き出すということですね。精神はそんなに急いでどこに向かうのでしょうか?
博士:どこでもよいではないか。そもそも,遺体から遊離した精神にとっては時間が進むことはないのだから,自分がどこに向かっているか認識できないのではないだろうか。仏教的には,何らかの周回軌道を進んでいて,年に二~三回,元の位置に戻ってくると考えるのがよいかも知れない。
助手:それがお彼岸とかお盆だというわけですね。
<おしまい>
2013-06-30 18:26
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0